[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今、ネット上でこの はすみとしこさんのイラストが炎上中です。在日の反発が半端ないほどすさまじく、本当のことを書くと在日どもはこれほど真実を知られたくないのだなとつくづく思います。
『在日韓国朝鮮人はシリア難民と同じ戦争難民でしかありません!
日本人に助けられたのに「強制連行された」などというウソはもう止めて!
戦前戦後 と韓国朝鮮人にとっての日本は「密航してでも行きたい国」でした。それは日本が朝鮮半島よりはるかに進んだ文明国家であり、お金が稼げる場所だったからです。密航というリスクを払ってまで韓国朝鮮人たちは海を渡ったのです。ただ、1948年以後は少し事情が違います。今度は「お金目当て」ではなく「命目当て」に密航の理由が変わったのです。そのきっかけが「済州島四・三事件」。アメリカとソ連の対立は朝鮮半島にも持ち込まれます。以下、反共勢力と共産主義勢力の殺し合いが朝鮮半島を血で染めたのです。在日韓国朝鮮人はこの事実を認めたがりません。なぜなんでしょうね?
(それは1948年から李承晩によって同胞虐殺からです)
なでしこりん
これらを ご覧になられた皆様なら、在日韓国朝鮮人が韓国や北朝鮮に帰国したがらない理由をご理解いただけたでしょう。おそらく、在日1世にとっては「朝鮮半島は悪夢」でしかなかったはず。 だからといって、在日1世が日本に密入国し、本来ならば手に入れられない特別永住資格を手に入れたカラクリも認めたくない。「在日1世は犯罪者」と認めることですからね。だから、彼らは「ウリたちは強制連行されたニダ!」というウソを撒き散らし、本来、彼らを助けた日本国民を敵視する反日教育をおこなうことにしたのでしょう。もちろん、そんな不当な行為は認められるはずはありません。』
ソフトバンクの孫正義とか都知事の舛添とか民主党の細野豪志、野田佳彦、蓮舫、福山哲郎、千葉景子、近藤昭一、岩國哲人、土肥隆一、金田誠一、岡崎トミ子、簗瀬進、山下八洲夫、中川正春、横路孝弘、神本美恵子、鉢呂吉雄、今野東、松野信夫、平岡秀夫、赤松広隆、小宮山洋子、鳩山由紀夫(実父威一朗が結婚前に韓国人に生ませた子、妻の幸は在日韓国人)、横光克彦、松岡徹、水岡俊一、群和子、犬塚直史、佐藤泰介、谷博之、藤田幸久、増子輝彦、江田五月、高木義明、中嶋良充、円より子、中村哲治、藤谷光信、室井邦彦、横峯良郎、白真、奥村展三、小沢鋭仁、川端達夫、佐々木隆博、末松義規、西村智奈美、細川律夫、家西悟、小川敏夫、津田弥太郎、ツルネン・マルティ、那谷屋正義、内藤正光、福山哲郎、峰崎直樹、郡司彰、小川勝也などすべて在日外国人です。
自民党にもうようよ、野田聖子も朝鮮人。小泉も横須賀ヤクザだった爺さんが朝鮮からの密航者。
以下も疑いあり
自民党は山崎拓、河野太郎、加藤紘一、衛藤征士郎、河村建夫、中川秀直、犬村秀章、野田毅、太田誠一、二階俊博、大野功統、馳浩。
社民党は福島瑞穂(本名・趙春花、昭和六十一年二月十五日帰化)辻元清美、保坂展人、
照屋寛徳、日森文尋、近藤正道、又市征治。
吉本芸人はほぼすべて在日。テレビの芸人の9割が在日。あとの1割は反日戦後利得者などのコメンテーター。気色悪いテリー伊藤 本名晒せ。
日本を内側から侵食している在日シナ朝鮮人どもを排斥するため このイラスト拡散しましょう
屈折した国民性を形成した、屈辱の500年 李氏朝鮮時代‐5~7、 「正しい歴史認識」のために
5.事大の果ての日清戦争と閔妃(ビンヒ)暗殺
1894年、朝鮮国内の東学党の乱をきっかけに、清国軍と日本軍は朝鮮に出兵したが、反乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け入れずに対峙を続けた。日本は清に対し、朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出したが、清は日本のみの撤兵を要求しこれを拒否した。
日本は朝鮮に対して、朝鮮の自主独立を侵害する清軍の撤退と清朝間の、宗主藩属関係を解消することを申入れた。これに対して、朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答した。しかしこの混乱の中で、朝鮮国内では大院君がクーデターを起こし閔妃政権を追放し、金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は、閔妃政権と結んだ清国を掃討すべく、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼した。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われ、8月に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。
近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていない清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領し大勢を決した。この混乱に乗じた大院君は、東学党を扇動し、数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本軍を駆逐する策を実行するように指示した。しかしその企ても、予想以上に早い日清戦争の決着で、全(ホウ)準は捕らえられた。井上馨日本公使は金?(ホウ)準の人格に共感しており、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、日本追い落としの企てが発覚することを恐れた朝鮮政府により、井上が帰国している間に処刑された。
翌年4月、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から遼東半島、台湾、澎湖(ホウコ)列島と多額の賠償金などを得ることになった。しかし、ロシア、フランス、ドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた。
下関条約で、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、大院君によって政権を追われていた閔妃とその一族は、下関条約からまだ3ヶ月も経過していない7月に、ロシア軍の力を借りてクーデターを行い、再び政権を奪回した。このロシアを引き込んでの閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。こうした中での10月、日本軍守備隊、領事館警官、日本人装士、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。
事件直後の朝鮮国内での裁判では、興宣大院君を首謀者とする判決が出ているが、決定的な証拠がないため、その後、様々な設が出ている。反日教育の影響か、現在の韓国には、閔妃を殺したのは日本軍であり、さらに閔妃の遺体は日本人により凌辱されたとの話もあるが、閔妃のそれまでの行状を考えれば、大院君のみならず、朝鮮内の多くの者もその動機を持っていた。
雀基鎬(コウ)は、「閔妃は自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く、義父で恩人でもあった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかし、ある時は日本に擦り寄り、ある時は清国に接近し、清国を捨てると今度はロシアと結びと、智謀家ではあったが、倫理が無く、「背恩忘徳の生涯」だった」としている。また「門戸解放した朝鮮は西洋の先進文物を取り入れ、富国強兵と産業振興を目指すと同時に、古くなった封建制度を捨て去って新たな秩序を打ち立てなければならなかったが、閔妃とその一族は、この内どれも満足にできず、その結果として、どの勢力からも支持を得られなかった。開化反対を叫び壬午軍乱に参加した群衆は、閔妃を攻撃の的とし、また甲申政変を起こした開化派も東学農民軍もすべて閔妃とその一族の打倒を叫んだ。誰からも支持を得られなかった閔妃は、外国勢力に頼り、自身の権力欲のために清を引き入れ、朝鮮を日清戦争の地としたのは閔妃である」とする者もいる。
https://www.youtube.com/watch?v=rYrUGxjOirQ
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561318927.html
http://mitinoku.biz/?p=5246
6.大韓帝国皇帝高宗の陰謀と日露戦争
清と朝鮮以外の関係各国は、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。多国間で朝鮮の中立を管理、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。しかしロシアの南下政策を警戒するイギリスは、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。しかしその意に反し、ロシアと朝鮮は次第に接近していった。
日清戦争後、清国は朝鮮の宗主国としての立場を失い、朝鮮は独立国となった。甲午農民戦争を率いた徐載阿弼と李完用らは、朝鮮における立憲君主制導入を目指し、独立協会を創設し、独立新聞を発行し、開花思想を民衆に啓蒙した。また日本が勝利し、清に朝鮮の独立を認めさせたのを祝い、屈辱の迎恩門の地に、独立門を建設した。
独立協会は、ロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言した。高宗は王宮に戻り、朝鮮初の皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。しかし、大韓帝国成立後、高宗は絶対王政を維持しようと、保守勢力と結び、独立協会を弾圧し、1898年にはこれを強制的に解散させた。
その後ロシアは、三国干渉によって、1898年、清国と旅順港、大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、韓国から全てのロシアの軍事、民事アドバイザーが撤退した。しかし親露派の高宗は、ロシアに鍾城や慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を売り払い、多くの権益がロシアにわたっていた。
また、開花派の金弘集などは殺され、議会政治への道も閉ざされ、民衆は高宗の親露政策に対しても反発の動きを見せた。これらのことから、アメリカ行使のホレイスアレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている。
皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画がおき、9月には高宗、皇太子暗殺未遂事件が起こった。高宗は、光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。
一方、ロシアと日本は、満州と朝鮮を挟み対立は深刻化していた。地政学的に、大韓帝国がロシアによって飲み込まれるような事態になれば、日本の安全保障が脅かされることから、対朝鮮政策を強化していった。1940年2月、大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結した。そして清国での義和団事件をきっかけにして、ついに日露戦争が始まった。
開戦後の8月には、大韓帝国とロシアが結ぶことを牽制し、第一次日韓協約を締結し、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。この時期の大韓帝国は、これまでの事大の相手が、清からロシアに移っただけで、李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では、独自改革が難しいと判断した進歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。
戦局は日本優位に進み、日本は1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定した。また7月には、アメリカとの間で、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。これらの動きの中で高宗は、大韓帝国をロシアの保護下に置くための密使を派遣したが、日本は高宗の密使を発見し、高宗の条約違反という弱みを握ることとなった。
また、1907年6月には、高宗は、第2回万国平和会議が行われるハーグに、秘密裏に特使を派遣したが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力は、高宗の皇帝退位へと動き、7月純宗へ譲位し退位した。
日露戦争は、日本が勝利し、列強の支持を取り付けた日本は、11月
第二次日韓協約を締結し、韓国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。承政院日記には、高宗が保護条約反対派の大臣をなだめる記述が残っている。
https://www.youtube.com/watch?v=rYrUGxjOirQ
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561318927.html
http://mitinoku.biz/?p=5246
7.腐敗と強欲傲慢の果ての日韓併合
大韓帝国時代、高宗は光武改革を行ったが、それについてイギリスの旅行作家イザベラ・バードは、「朝鮮紀行」で以下のように述べている。
「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このような堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」
ハーグ密使事件以降、日本では盛んに韓国併合が取りざたされるようになった。反対論には、福沢諭吉の「脱亜論」を受けて、「朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化となる」というものもあったとされる。また、併合の際に、朝鮮の近代化のためには膨大な資金の負担についての懸念もあった。反対に、軍部を中心に、ロシア勢力が弱体化した満州への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、国論は併合賛成・反対に二分された。
1909年7月の閣議で、日韓併合方針は明確となった。伊藤博文は併合に反対だったとされるが、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」と了承し朝鮮統監となった。併合に当たっては、統監として朝鮮の権限略奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与しなければならず、抗日独立派からは敵視され、同年10月、安重根により暗殺された。伊藤博文は死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だった事を知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたという。この暗殺事件により日本の国論は沸騰し、また動揺した朝鮮親日派の嘆願などの影響で、併合は早められ、結果として、安重根は「先の読めない暗殺者」ということになった。
同年12月には、当時、自称会員100万人を誇る韓国最大政党である「一進会」は、「韓日合邦を要求する声明書」」を上奏した。これは、大日本帝国と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの大帝国を作るというものだった。また、この声明の中で「日本は日清戦争や日露戦争で、莫大な費用と多数の人命を費やしながら、韓国を独立させ、ロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約、ハーグ密使事件も我々が招いた。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受し、政府と社会を発展させよう」との声明をだした。もちろんこれは、伊藤博文暗殺に対する日本人の反感に敏感に反応したという側面もあるだろう。
1910年8月、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備される中、漢城で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合した。新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置され、韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
日韓併合は、当時のアジアの列強諸国の競り合いの中で生まれたぎりぎりの結論であり、国際社会はこれを受け入れた。そしてこれは、一進会が言うように、国民を省みることなく、国際社会を争乱に巻き込んだ、大韓帝国自身の強欲と腐敗と権力欲の結果だった。
https://www.youtube.com/watch?v=rYrUGxjOirQ
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561318927.html
http://mitinoku.biz/?p=5246
朝鮮人李家の安倍晋三らの朝鮮人達がいかに、ウソ、隠蔽、偽装、民衆弾圧が平気で当たり前の腐敗した国民性の下衆共かが下記の朝鮮の歴史からよく判る。
朝鮮人李家の最後の皇帝から三代目だから名に三が付く安倍晋三ら朝鮮人達がやり尽くしている諸悪が、李氏朝鮮の500年以上の歴史そのものである事が下記から判る筈だ。
インディアン滅亡に、911等々、建国239年中222年を戦争と紛争に明け暮れてきた米国賊、特にCIAと米軍がやってきた事と正に付合し合致する大虐殺に暗殺と脅迫と略奪の歴史と全く同じだ。
道理で、暗殺となりすまし支配に明け暮れるナラズ者米国の民賊とよく気が合う訳だ。類は友を呼ぶ。
朝鮮人李家の安倍晋三ら議員、役人達は当然、処刑だし、
輸入された乗っ取りなりすまし朝鮮人工作員達は、国外に追放か、強制送還か、それでも隠れて居座ろうものなら処刑すべきだ!
屈折した国民性を形成した、屈辱の500年 李氏朝鮮時代‐1~4、 「正しい歴史認識」のために
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561388925.html
1、李氏朝鮮は明の従属国として成立した
李氏朝鮮は、1392年に、高麗の武将だった李成桂が、明の力を背景とし、クーデターにより高麗王を廃し、明から朝鮮国王代理に封ぜられ成立した。その成り立ちから明に臣従するもので、1401年から正式に朝鮮国となり、明の朝貢国として、冊封体制に組み込まれた。
明の力が衰退し、後に清となる後金が勃興し始めると、当初は明と清との二極外交を行っていた。しかし、朝鮮には新興国の後金を侮辱するものも多く、明への傾斜を強くした。しかしこの政策は裏目に出て、1627年、後金は3万の兵力で朝鮮に侵入、朝鮮側は敗北を重ね、結局、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑み講和した。
講和が成立し、後金が朝鮮から撤収すると、朝鮮は国防対策を見直し、オランダから大砲を導入するなど防衛力を強化した。1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。しかし軍事力を強化していた朝鮮はこの要求を拒否した。このため清は、皇帝ホンタイジおのずからが12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した。朝鮮は抵抗を試みたものの、わずか40日余で降伏した。
朝鮮王の仁祖は、清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされた。仁祖は朝鮮王の征服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座る清のホンタイジに向かい、最下段から三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける三跪九叩頭の礼により臣下の礼を行い、許しを乞うたという。ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語、モンゴル語、漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」である。
また、ソウル郊外の北京に至る街道筋には、明代に中国の勅使を迎えるための「迎恩門」が建てられていた。中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮歴代の王は、勅使が来るたびに、この門まで出迎え、三跪九叩頭の礼を取ったとされ、それは清になってからも変わることはなかった。
李氏朝鮮は、その始まりから、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制から李氏朝鮮が離脱する迄のおよそ500年の長きにわたり、冊封体制のもと朝鮮半島を支配した。それは明や清の臣下として従属することで得られた、与えられた王権であり、「長いものには巻かれろ」「強き者にはへりくだり、弱きものには強圧的に」といった事大主義の成果ともいえる。
この事大主義は、内政面にも表れ、明人であればたとえ海賊であったとしても処刑することは出来ず、明へ丁重に輸送しなければならなかった。倭寇と対峙した地方の武将達は、戦闘のさ中に日本人と明人の判別をつけるという難題に晒され、明人を殺害したとして処罰される者すら存在した。
李氏朝鮮は、中国への卑屈な服従関係と、その屈辱を覆い隠す名分として、中国を中心とし、それに属する朝鮮は中華文明の中にある「先進国」として、日本などさらに周囲の中華文明の外にある国々を蔑んだ。これは「慕華思想」と呼ばれていたが、その後、清は日清戦争に敗れ、列強諸国に蚕食され崩壊していく中で、民族としての誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。
https://playtube.pk/watch?v=kqBJ8kVHzNc
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561388925.html
http://mitinoku.biz/?p=5240
2、500年も続いた、奪うだけの強欲傲慢な両班政治
李氏朝鮮の時代は、その初期の時期を除き、両班による党派抗争の歴史と言っても良い。
両班は、古い時代の部族の長や、地方地主などが主で、李氏朝鮮時代の貴族階級で、身分制度の最上位に位置していた。官僚機構は、科挙により選抜されていたが、実質的には両班により独占され、特権階級を構成していった。
李氏朝鮮での身分制度は、大きく両班(リャンバン)、中人(チュンイン)、常民、賤民と言う四段階に分けられ、さらに細かく分けられていた。
その身分制度は厳しく、貴族階級に当たる両班は、儒教の教えのもとに、労働行為そのものを忌み嫌い「転んでも自力では起きない」「箸と本より重いものは持たない」と言われ、労働もしないことを徳としていた。それに対して賤民は、馬牛とともに売り買いされる「奴隷」であり、妓生もこの賤民にあたる。
両班は、農、工、商には従事せず、儒学だけを勉強し、科挙を経て高級官職にも昇進することができる特権を持った。そして、官僚になれば、土地と俸禄などを国家から受け、巨大な地主階級を形成していった。このような経済的な基盤を土台にして、権門勢家の門閥を形成し、互いに利権を異にする派閥を作り、血なまぐさい対立抗争を起こすようになった。
末端の行政、警察を担当する下級官僚は、直接平民たちを支配する実権を握り、社会的に一つの大きい勢力を形成していた。常人の大部分は農民で、彼らは国に対して租税意外にも各種の義務を負担し、地方官などの搾取対象で、その生活は一般的に悲惨なものだった。商工業は、特に卑しいものとされ、従事する人は、そのほとんどが賤民だった。
このような事からか、陶磁器の作りはひどく粗末で、刀やその他の刃物は価値が低いなど、工業技術で見るべきものは少ない。また貨幣経済が遅れ、道路などのインフラ整備もなされなかったこともあり、商業も発達しなかった。また、ハングル文字が15世紀になって作られたが、両班は中華思想の影響から漢文を好みハングルを蔑んだ。両班は中国文学を好み、儒教を学んだが、暦学、天文学とともに中国のコピーであり、それを越えるものは生まれなかった。
常人や賤民からの租税などは、道路などの社会的なインフラ整備や、産業の振興などに使われることはまれであり、その多くは両班ら支配階級の私腹を肥やすためのものだった。このような状態は、李氏朝鮮末期にはますますひどくなり、当時の状況が、外国人によって次のように記載されている。
「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢で、両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。」
「大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。」
「彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令は、一人もいない。」
「両班が首尾よくなんらかの官職に就くことができると、彼はすべての親戚縁者、もっとも遠縁の者にさえ扶養義務を負う。彼が守令になったというだけで、一族全体を扶養しなければならない。」
「これに十分な誠意を示さなければ、貪欲な者たちは、守令の留守のあいだに、彼の部下である徴税官にいくばくかの金を要求し、応じないと、彼の手足を縛り厳しい拷問にかけ、ついには要求の金額をもぎとる。」
「守令がこの事件を知っても、掠奪行為に目をつむるだけである。官職に就く前は、彼自身も同様のことをし、また、その地位を失えば、自分もそのようにするはずだからである。」
https://playtube.pk/watch?v=kqBJ8kVHzNc
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561388925.html
http://mitinoku.biz/?p=5240
3、大院君と閔妃の宮廷内争乱の中の開国
両班による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。しかし、1863年に、第26代王高宗が11歳で即位すると、実父の興宣君が大院君として摂政の地位に就いた。興宣が摂政になると、勢道政治を排し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くするなどの改革を行った。
しかし、大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国、攘夷策を取った。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊を投入し、江華島の一部と江華城を占領、しかし首都漢城へ進軍途中敗北し、フランス軍は江華島からの撤退を余儀なくされた。
また、アメリカ商船シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられた。アメリカはこの事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍艦5隻を率いて交渉に赴いた。しかし大院君は強硬に開国を拒絶し、アメリカは交渉を諦め撤退した。
大院君は、1866年、閔氏の娘の茲(シ)暎を15歳で高宗の王妃として王宮に入れた。それまで60年間にわたって王の外戚として権勢を誇った安東金氏の政治的影響力を削ぐための人選だったとされる。閔妃は当初は大院君に従っていたが、閔一族を登用するために、次第に大院君と対立するようになり、大臣達とともに、大院君の下野運動を始める。
高宗は政治と妃に全く関心を持たず、専ら多数の宮女や妓生達を相手にし、漁色と酒といった放蕩三昧に明け暮れる愚昧な人物だった。高宗が愛人との間に長子をもうけると、閔妃は急いで自身の子を出産し、その子を世子とするため、宗主国である清に側近を派遣して賄賂を贈り、自身の子を嫡子として冊封してもらうことに成功し、大院君との対立は決定的となった。
1873年、高宗の親政が宣言されると、閔妃一派による宮中クーデターが成功し大院君は追放された。政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治への逆戻り、それまで大院君が行った改革はことごとく無にされ、大院君派の多くは追放され、また処刑された。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、血で血を洗う抗争が続き、朝廷の混乱の原因の一つとなった。閔氏一族は、大院君の攘夷政策に対抗し、一転して開国政治に切り替えた。
明治政府は、その初めから朝鮮に対し開国を求めていたが、大院君の攘夷政策により、使者は首都に入ることも許さず、それは明治政府に対する侮辱と受け止められ、征韓論が起こっていた。大院君失脚により、明治政府は朝鮮に開国を求め、軍事的な示威行動も意図して、江華島に軍艦を派遣し、周辺の測量調査を行った。これに対して朝鮮は砲撃を加え、日本の軍艦と江華島の砲台は交戦状態となった。
しかし両国とも戦闘を継続する意思は無く、朝鮮政府は事件後、釜山草梁における日本人への対応を一転して丁重なものに変える等、日本側を慰撫するような動きも見られた。事件後の1876年、全権大使の黒田清隆らが江華府へと派遣されると、朝鮮政府は日本側に多大な配慮を示す対応を見せた。開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえる。結局、閔氏政権は、同年、日朝修好条規を締結し、それに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどとも通商条約を結び開国した。
https://playtube.pk/watch?v=kqBJ8kVHzNc
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561388925.html
http://mitinoku.biz/?p=5240
4、事大の中の近代化挫折と東学党の乱
近代化を推し進める閔妃派と、鎖国、攘夷を訴える大院君派の対立は一層深刻なものになっていった。しかし、閔妃の開国は、朝鮮国民の為の近代化ではなく、閔妃一族の栄達をはかる為のもので、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅するようなものだった。両班の特権を復活させ、大院君派を根こそぎ追放、流刑、死刑にした。
この当時の閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額を布施により浪費した。これは法外な額であり、宮廷の役人は民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈っていた。また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる。
開化派は、日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手したが、従来の軍隊は新式軍隊に対する不満をつのらせていた。大院君はこの勢力と結び、1882年、閔妃暗殺を目論んだ。その際多くの閔妃派要人や日本人が殺され、日本大使館は焼き討ちにされた。
閔妃はかろうじて脱出し、朝鮮国内に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。この事件以来、閔妃は親日的な政策から、次第に清に頼る事大主義に路線変更していった。また、その後、不凍港を求め南下するロシアとも結び親露政策もとりはじめた。
当時の日本では、アジア諸国を植民地に組み込んでいく欧米列強の脅威の排除とアジアの連携を目指し、開国文明化、協同、合邦、新秩序構築が唱えられていた。開化派の金玉均は、アジアで最も早く近代化に着手した日本に学び、福沢諭吉らとともに朝鮮や清の近代化を目指した。しかし金玉均らは、閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないと考え、1884年、甲申政変を起こした。閔妃は一時追放されたが、袁世凱率いる清軍の力により3日で政権を取り戻した。その後、金玉均は、上海で閔妃の刺客により暗殺され、遺体をも凌辱する李氏朝鮮での最も重い刑罰の「凌遅刑」とされ、その遺体はバラバラにされ、朝鮮各地にさらされた。
この朝鮮の後進性に衝撃を受けた福澤諭吉は「脱亜論」で「不幸なるは近隣に国あり」として、自身で国の変革ができない「悪友」の清国と朝鮮にこれ以上関わることは、日本の外交にも支障が出るとし、「我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と述べている。日本における「アジア主義」は、これ以上、清国や朝鮮が、自力で近代化を行うことには期待せず、日本が主導し、アジアの革命勢力を支援する思想へと変化し、やがて「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。
閔妃政権は、甲申政変のような問題が起きると、日本や清国やロシアなどの大国の対立を利用し一時的に収捨するだけで、根本的な問題を自らの手で改革できずにいた。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満の高まり、1883年から各地で農民の躍起が起きていた。そのような中、1894年春、東学党の二代目教祖の雀時亨が武力蜂起し、反乱軍は全
(ホウ)準という知将を得て、5月には全羅道一帯を支配下に置いた。
これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請し、甲申政変後の天津条約にもとづき、日本も公使館警護と在留邦人保護のために派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成締結し、この和約により、全羅道に農民権力による自治が確立した。しかし結局これも、その場しのぎのものでしかなかった。
https://playtube.pk/watch?v=kqBJ8kVHzNc
https://ameblo.jp/goodwillparadise/entry-12561388925.html
http://mitinoku.biz/?p=5240